寺島宗則是什么意思(中文簡介)
寺島 宗則(てらしま むねのり、1832年6月21日(天保3年5月23日)- 1893年(明治26年)6月6日)は、日本幕末武士(薩摩藩士)、明治時代政治家、外交家、明治維新的元勛(維新元勛)。正二位·勛一等·伯爵。本姓長野,前名松木弘安(まつき こうあん),后改名寺島陶藏,通稱宗則。被稱為日本的電信之父。曾學荷蘭醫(yī)學,文久2 (1862) 年,參加幕府的遣歐使節(jié)團,在英國滯留2年,化名寺島陶藏就職于幕府,任開成所教授等職務。薩英戰(zhàn)爭中一度被俘,慶應元年(1865年)化名出水泉蔵率薩摩藩使節(jié)團再次赴西歐考察。明治維新后出仕新政府,歷任參與兼外國事務掛、神奈川府判事、外國官副知事、外務大輔、駐英公使等職務,明治6年(1873年)任參議兼外務卿。曾負責重大外交談判,如赫斯珀里亞號事件,和清國締結關于琉球群島的條約,和俄國締結《樺太千島交換條約》,和朝鮮王朝締結《日朝修好條規(guī)》等。1878年,成
寺島宗則是什么意思(日文簡介)
1832-1893 幕末-明治時代の武士,外交官。
天保(てんぽう)3年5月23日生まれ。薩摩(さつま)鹿児島藩士。蘭學をまなび,幕府の蕃書調(diào)所教授手伝となり,文久元年第1回幕府遣歐使節(jié)の隨員として渡歐。維新後,外務大輔(たいふ),駐英公使をへて明治6年參議兼外務卿となり,條約改正交渉にあたる。のち元老院議長,樞密院副議長などを歴任。明治26年6月6日死去。62歳。本姓は長野。前名は松木弘安(こうあん),寺島陶蔵。変名は出水泉蔵。
天保(てんぽう)3年5月23日生まれ。薩摩(さつま)鹿児島藩士。蘭學をまなび,幕府の蕃書調(diào)所教授手伝となり,文久元年第1回幕府遣歐使節(jié)の隨員として渡歐。維新後,外務大輔(たいふ),駐英公使をへて明治6年參議兼外務卿となり,條約改正交渉にあたる。のち元老院議長,樞密院副議長などを歴任。明治26年6月6日死去。62歳。本姓は長野。前名は松木弘安(こうあん),寺島陶蔵。変名は出水泉蔵。
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